ホーム お知らせ 荻野 幸作(おぎのこうさく 1911-1992) 荻野 幸作(おぎのこうさく 1911-1992) 2009年2月6日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■一年中家族と暮らせる町 次に幸作さんが取り組んだのは、まちの基盤づくりです。桜井町は、出稼ぎに行かないと暮らしていけないまちでした。そのころの桜井町には、いろいろと地場産業がありましたが、それほど大きな産業ではありませんでした。勤め口が少なかったため、多くの人々は出稼ぎに行くしかなかったのです。 地元に働く場所があったらいい。そうしたら家族が一緒に暮らせるのに。―それが町民の悩みであり、願いでした。 そんな時、YKK(※1)の吉田忠雄社長(よしだただお)が、工場を建てる広い土地を探しているということが分かりました。これは、絶好のチャンスです。桜井町が合併して黒部市になる少し前のことです。さっそく、幸作さんは関係者とともに、忠雄さんのところへ行きました。ファスナー工場への夢と、日本経済の将来を語る忠雄さんの話を聞き終わると、こう言いました。 「吉田さん。あなたの工場、黒部に建ててもらえんやろうか?土地はただであげます。私は市民を代表して来たんです。どうです、吉田さん使ってくれませんか。」 なんと、忠雄さんに惚れ込んだ幸作さんは、土地をただで提供するというのです。忠雄さんは、当初、出身地の魚津市か、交通の便のよい静岡県あたりに工場を建てようと考えていたにもかかわらず、幸作さんたちの善意と期待に心打たれ、縁もゆかりもない黒部市に工場を建てることを決意しました。 いったん「これだ!」と信じると、迷うことなく突き進む、抜群の行動力をもった幸作さんです。忠雄さんの返事をもらうと、すぐに行動を開始しました。幸作さんは、連日連夜、その事業に反対する人たちの家を訪ねていき、説得にあたりました。夜遅くなり、役所の宿直室でそのまま寝てしまったこともあったといいます。その甲斐あって、約束どおり3万坪を用意することができました。 幸作さんは、たくさんの困難を乗りこえて、地元に働く場所が欲しいという市民の願いをかなえたのです。その後、YKKだけでなく、いくつもの大きな企業にも働きかけました。そうして多くの勤め口ができ、黒部市は、家族が一年中一緒に暮らせるまちになりました。 ※1 YKKは牧野から 黒部市がYKKに提供したのは、黒部市牧野の3万坪でした。牧野は、JR黒部駅に近く、材料を仕入れたり、製品を運び出したりするのに便利な場所です。その後、再び工場用地が必要となったYKKに対し、黒部市は、村椿の10万坪を提供し、生地工場が作られました。 【昭和35年ごろのYKK黒部工場(現黒部牧野工場)】 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ ゴールデンウイーク期間中(4月27日~5月6日)の市内路線バスの運行について 令和6年能登半島地震による法人市民税等の申告・納付等の期限の延長について 令和6年度「農業経営のてびき」を作成しました 申請はお済ですか?「非課税世帯等価格高騰支援給付金(追加)」の申請は30日までです 春の農業用水路転落事故防止強化期間について 「第3次黒部市子ども読書活動推進計画」を策定しました 「第2次黒部市立図書館サービス計画」を策定しました 黒部市立あおーよ図書館ボードゲームイベントについて お知らせ一覧へ