ホーム お知らせ 森丘 正唯(もりおかまさただ 1880-1967)「中新のおやっさま」と慕われ 農業に生涯を捧げた村長さん 森丘 正唯(もりおかまさただ 1880-1967)「中新のおやっさま」と慕われ 農業に生涯を捧げた村長さん 2009年2月6日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■日本一若い村長さん 「かわいさのあまりに、弱ん坊に育てたら取り返しがきかぬ。薄着をさせて、おんぶやだっこをせずに、庭をはわしておくように。」 これは、正唯さんが生まれてすぐに、父が母に言った言葉です。正唯さんは、この言葉の通り厳しく育てられました。 16歳のときには、両親が病気になり、その看護のため富山県立第一中学校(現在の富山高等学校)を休学しました。17歳のとき、大布施村の初代村長だった父が亡くなり、一家の大黒柱となりました。 再び学校に通いましたが、卒業するとすぐに、村人たちに頼まれて大布施村(おおふせむら 現在の黒部市大布施地区)の村長になりました。20歳で、日本一若い村長さんでした。 このころの町長・村長は、地元の地主や名家から選ばれました。現在のように選挙で選ばれるようになったのは、のちのことです。 ■大学へ 村長としての仕事を行ううちに、正唯さんは、政治や経済を学ばなくてはならないと考えるようになりました。そこで、村長を辞職して、早稲田大学の政治経済学部に入学しました。 大学では学業に励み、卒業するときは、いろいろな勤め先を勧められました。しかし、大布施村で正唯さんの帰りを待つ人々のことをを思い、「私は、村に帰って村長になります。」と言って断ったそうです。 卒業後、日露戦争に参加しました。除隊後、大隈重信さん(※1)に会うことがあり、そのとき、次のような言葉で励まされました。 「君は村長になる考えだと聞いた。わが輩は心から嬉しい。日本をよくするには、第一にその基盤である町村長のレベルを高めねばならない。」 正唯さんは、この教えを教訓として大布施村に帰り、再び村長を務めることになりました。 ※1 大隈重信(おおくましげのぶ 1838―1922) 政治家、教育者。佐賀藩士の家に生まれて、外国の学問を広く学びます。のちに、激動の明治・大正期に内閣総理大臣となって優れた政治手腕を発揮します。また、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立者としても知られています。 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ 令和6年度黒部市スポーツ障害チェック(検診)の実施について 第42回カーター記念黒部名水マラソンのランナーを募集します! ●人間ドックの助成 冬の農業用水路転落事故防止強化期間について 宇奈月温泉スキー場お得なシーズン券の受付を開始しました(早割12/20締切) 償却資産の申告について 黒部市地球温暖化対策実行計画(区域施策編)(案)に関する市民パブリックコメントの実施について パパママサポートセンター「たんぽぽ」託児サポーター募集中 お知らせ一覧へ