ホーム お知らせ 川端 元治(かわばたもとじ 1902-1980) 漁業者たちの幸せを願った 日本の水産業界のリーダー 川端 元治(かわばたもとじ 1902-1980) 漁業者たちの幸せを願った 日本の水産業界のリーダー 2009年2月9日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■越中衆の開拓魂と父の才覚を受けついで 川端元治さんは、明治35年(1902)10月13日、北海道庁根室支庁植別村羅臼(ねむろしちょううえんべつむららうす)で川端家の長男として生まれました。 父の川端元次郎さん(もとじろう)は、生地町(いくじまち 現在の黒部市生地)の生まれです。明治24年、20歳の時に同郷出身の先輩で、根室で手広く商いをしていた中陳喜之助さんを頼って北海道へと渡っていました。 明治新政府は、それまで蝦夷地(えぞち)とよばれていた土地を北海道と名づけ、その開拓を全国に呼びかけました。これに応じて、富山県からは5万数千戸が開拓移民として北海道に渡りました。 厳しい冬の寒さにも負けず、こつこつと働く「越中衆」(えっちゅうしゅう)は、北海道の荒れ地を見事に開拓していきました。また、越中衆は、その勤勉さと実直さで着実に周りからの信用を得て、農業以外の分野でも次々と成功を収めるようになっていました。中陳喜之助さんもそうした商売人の一人だったのです。 元次郎さんは、中陳商店の漁業部の大船頭として活躍します。大正9年(1920)には漁業生産者を引きついで独立し、川端商店を立ち上げ、根室一の仕込み親方(業者たちの衣食住すべての面倒を見る代わりに、とれた魚のすべてを自分に収めさせる親方)となりました。 元治さんは、越中衆の開拓魂と父譲りの才覚を受けついで、根室漁業界の若きリーダーへと成長していったのです。 【元治さんが生まれた頃の北海道鉄道路線図】 ■漁船保険の改革 元治さんは、昭和15年(1940)、38歳の若さで根室漁船保険組合理事に就任、7年後には同組合長に就任します。 当時の北海道には九つの漁船保険組合がありましたが、そのほとんどが赤字続きで経営が難しくなっていました。保険の良さについて漁業者がよく理解しておらず、保険への加入者が少なかったからでした。 漁業は、日々の自然条件に左右されやすく、収入がなかなか安定しない仕事です。また、時には命を失う危険性もあります。経済的に苦しい規模の小さな漁業者たちが安心して仕事をするには、いざというときに互いに助け合える組織を作っておくことが必要でした。 元治さんは、すべての漁業者がいざというときのために保険に入る漁船保険の義務加入を目指していました。そこで、自ら先頭に立って浜へ行き、漁業者に会って、漁船保険に入ってくれるようにと直接説得して回りました。初めは意識が低かった人たちも、保険に入ることの良さを少しずつ理解するようになっていきました。 その一方で、元治さんは、少しでも漁業者の負担を減らすために、保険料の一部を国庫(国がもっているお金を管理しているところ)から補助してもらえないかと考え、国に働きかけに行きました。こうした努力がやがて認められ、昭和27年、漁船保険の義務加入と保険料の国庫補助の制度が実現しました。 ※ 炊事当番 日ソ漁業交渉の際、モスクワに「北海道村」ができたときは、「ひとりずつ炊事当番をやろうじゃないか。」と、自らエプロンを着け、キャベツを刻んだりご飯を炊いたりしたそうです。 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ 令和6年度黒部市スポーツ障害チェック(検診)の実施について 第42回カーター記念黒部名水マラソンのランナーを募集します! ●人間ドックの助成 冬の農業用水路転落事故防止強化期間について 宇奈月温泉スキー場お得なシーズン券の受付を開始しました(早割12/20締切) 償却資産の申告について 黒部市地球温暖化対策実行計画(区域施策編)(案)に関する市民パブリックコメントの実施について パパママサポートセンター「たんぽぽ」託児サポーター募集中 お知らせ一覧へ