ホーム お知らせ 飯野 栄作(いいのえいさく 1901-1978) アルゼンチンの移民社会につくした 飯野 栄作(いいのえいさく 1901-1978) アルゼンチンの移民社会につくした 2009年2月6日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■海外に憧れてアルゼンチンへ 「外国へ行って、自分の力を試してみたい。」 荻生村(おぎゅうむら 現在の黒部市荻生)出身の飯野栄作さんは、下新川郡立農業学校(現在の桜井高等学校)を卒業したあと、横浜の日新楼旅館(にっしんろうりょかん)で働いていました。旅館を利用する外国人貿易商から話を聞くたびに、海外に憧れる気持ちが強くなっていきました。貿易港として発展していた横浜は外国航路の船が数多く出入りする町です。そのことも大きな刺激となったのでしょう。また、そのころの日本は、海外での活躍を夢見る若者や、生活のために外国へ移住する人が増えた時代でした。 栄作さんが目指したのは南米です。ただ、どんなに願望があっても簡単に海外へ行けるわけではありません。しかも、地球の裏側にある南米へ行くには、船で2か月近くもかかります。しかし、外国へ行きたい一心の栄作さんは、外国航路の船に乗り込み、日本をはなれました。アメリカのロスアンゼルスやパナマなどを経て、南米チリのバルパライソという港町に着いたのは、大正9年(1920)のことです。栄作さんはこのとき18歳でした。 上陸したからには仕事をしなくてはなりません。栄作さんが就職したのは、話に聞いていた貿易関係の会社です。アルゼンチン(※1)に本店がある山田兄弟商会の支店でした。栄作さんは、そのときはまだ南米で一生を過ごすつもりはなかったのかもしれません。しかし、山田兄弟商会に勤めたことは、その後の人生を左右する第一歩となりました。 ところが、栄作さんが勤めてまもなく、会社の都合で支店は閉鎖されることになりました。本社で働いたらどうかという誘いを受けた栄作さんは、隣国のアルゼンチンへ向かうことになりました。アンデス山脈を越えてアルゼンチンの首都ブエノスアイレスへ入ったのは、南米チリに上陸してから4か月後のことでした。栄作さんのアルゼンチン移住の始まりでした。 ※1 アルゼンチン移民 日本からアルゼンチンへの移民は20世紀に入ってから本格的に始まり、栄作さんがアルゼンチンへ移住した1920年には、すでに1,600人ぐらいが暮らしていました。現在、アルゼンチンの在留邦人は約12,000人、日系人は約23,000人です。 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ 春の農業用水路転落事故防止強化期間について 黒部市立あおーよ図書館ボードゲームイベントについて 令和6年6月定例会の日程をお知らせします 黒部市地域公共交通計画の策定について 【5月~6月実施】スマホ教室参加者募集中! 福祉に関する計画 第4次黒部市地域福祉計画(令和6年度~令和10年度)を策定しました。 林道の通行状況について お知らせ一覧へ