ホーム お知らせ 佐度 忠作(さどちゅうさく 1910-1966) 佐度 忠作(さどちゅうさく 1910-1966) 2009年2月6日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■考古学者へ 忠作さんは、田家小学校に赴任してからすぐ、子どもたちの遊び場になっていた八幡社(はちまんしゃ)で土器や石器を見つけました。一体これはなんだろう?と心おどらせて調べてみました。拾ったものを持って、考古学者早川荘作さん(※1)の家へ行き、考古学の手ほどきを受けました。 昭和14年(1939)八幡社横で工事が行われた時に、たくさんの土器や石器が掘り出されて、にわかに注目を集めるようになりました。忠作さんは、早速、小学校でそれらを展示して多くの人に見せました。また、その機会にと、考古学の手引き書『一般と郷土の石器について』を作成し、付近の小学校へ配りました。 そのことが子どもたちに影響を与え、休みの日に調査していた忠作さんを手伝うようになりました。休みになると、みんなでスコップやシャベルを持ってあちこち出かけたものだと、教え子たちは懐かしく振り返っています。 昭和22年(1947)忠作さんは、宇奈月町の内山小学校へ転勤しました。近くにあった内山遺跡や愛本新遺跡によって、忠作さんの研究心が刺激され、ますます調査に打ち込むようになりました。 内山遺跡からは、きれいな装飾が施された大きな土器片など、たくさんの土器や石器が出土しました。 愛本新遺跡については昔から知られていましたが、精力的に調査したのは忠作さんが初めてでした。調査を進めていくと、千年もの長い間、そこに縄文人たちが住み続けていたことが分かりました。出土品はバラエティに富んでいて、興味はつきませんでした。 そうして調査に明け暮れるうち、元々身体の弱かった忠作さんは、寝込みがちになり、先生の仕事を続けるのが難しくなって、退職することになりました。しかし、そこであきらめる忠作さんではありません。折しも、『宇奈月町史』の発刊が計画されていました。忠作さんの研究成果をまとまった形で発表するチャンスです。身体と相談しながらも、考古学の研究を続けました。 ※ 早川荘作 (はやかわしょうさく 1888~1911) 考古学者。世の中が考古学に関心のなかった大正時代から昭和にかけて、黙々と県下各地の遺跡を踏破(とうは)し、膨大な遺物を収集しました。その間、執筆や講演活動によって後輩指導にあたり、富山県考古学研究の基礎をつくりました。富山県考古学会を創設。 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ 黒部市立あおーよ図書館お泊り会イベントについて 【令和6年11月1日現在】黒部峡谷、宇奈月温泉周辺の観光施設及び登山道の状況について 黒部市健康づくりポイント2024 11月10日は「無電柱化の日」 令和7年黒部市20歳(はたち)を祝う式について 令和7年度税務課用封筒に掲載する広告を募集します 「令和6年度 市税概要」を発行しました 市職員の通年軽装勤務の試行について お知らせ一覧へ