ホーム お知らせ 雪山 俊夫(ゆきやまとしお 1880-1946) 雪山 俊夫(ゆきやまとしお 1880-1946) 2009年2月5日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■恵まれた才能を開花させる 俊夫さんは、明治13年(1880)、浦山村(現在の黒部市宇奈月町浦山)にある善巧寺(ぜんぎょうじ)に生まれました。善巧寺は、今から550年ほど前に慶祐上人(けいゆうしょうにん)という方が開き、数々の有名なお坊さんを生み出した伝統あるお寺です 明治32年に、富山中学校(現在の富山高等学校)を卒業後、東京第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)へ進みました。 このころは、学校へ通うための費用や学力の面から見ても、このように進学することはほとんどありませんでした。その意味でも、俊夫さんは黒部市を代表する秀才といえるでしょう。 俊夫さんは、幼いころから優れた資質に恵まれ、地域の人々から強く将来を期待されていました。どの教科にも多才な能力を発揮していましたが、その中でも語学に興味をもつようになりました。東京帝国大学時代には、藤代禎輔さん(ふじしろていすけ)というすばらしい語学の先生にめぐり会ったことから、ますます語学を勉強するようになりました。 東京帝国大学を卒業した俊夫さんは、金沢第四高等学校、岡山第六高等学校にドイツ語の先生として勤務しました。 もし、学者としての道を選んでいたら、大学の教授となっていたでしょう。しかし、学者となるより、高等学校の先生となって「将来の日本を背負って立つ青年を育てたい。」という強い志をもっていたのではないでしょうか。俊夫さんに教えを受けた生徒たちは、学問を厳しく見つめる態度が、そのまま授業にも表れていた方でしたと、懐かしく回想しています。 ■決断のとき 俊夫さんが、岡山第六高等学校に勤めていたとき、運命の分かれ道がやってきました。俊夫さんの生まれ育った善巧寺の住職であった兄の僧眼さん(第18世住職)が、亡くなられたのです。そのため、二男である俊夫さんが、このお寺の住職にならなくてはいけなくなったのです。 しかし、教育者として、研究者としての俊夫さんのすばらしい才能を惜しむ声が強くありました。俊夫さんは、これまでの教育者としての道を進むのか、それとも、善巧寺の住職として仏の道を進むのか、大変悩みました。これは、門徒の人たちも同じでした。門徒の人たちにとって、お寺は最も大切なのですが、同じように、俊夫さんの将来に期待し、偉大な人になってほしいという願いも強かったのです。 そこで、長野の親戚から善巧寺へ、住職代理が来ることになりました。周囲の方々の理解と協力のおかげで、俊夫さんは、住職にありながら、高等学校の教師、研究者としての道を歩み続けていくことができたのです。 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ ゴールデンウイーク期間中(4月27日~5月6日)の市内路線バスの運行について 令和6年能登半島地震による法人市民税等の申告・納付等の期限の延長について 令和6年度「農業経営のてびき」を作成しました 申請はお済ですか?「非課税世帯等価格高騰支援給付金(追加)」の申請は30日までです 春の農業用水路転落事故防止強化期間について 「第3次黒部市子ども読書活動推進計画」を策定しました 「第2次黒部市立図書館サービス計画」を策定しました 黒部市立あおーよ図書館ボードゲームイベントについて お知らせ一覧へ