ホーム お知らせ 冠 松次郎(かんむりまつじろう 1883-1970) 冠 松次郎(かんむりまつじろう 1883-1970) 2011年1月26日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■黒部との出会い 冠松次郎は、明治16年(1883)東京都文京区本郷に生まれました。あまりにも黒部峡谷と結びついて知られているので、富山県出身と思っている人もあるほどです。19歳のころから山登りを始め、明治42年26歳のときに、できて間もない日本で最初の登山家の団体である日本山岳会に入ります。黒部との出会いは、明治44年28歳の時です。白馬岳(しろうまだけ 標高2,932m、朝日町・長野県白馬村)から祖母谷(ばばだん)を下り、初めて黒部渓谷に接します。案内をしたのは、芦峅寺(あしくらじ)の名ガイドでのちに立山案内人組合(現在の立山ガイド協会)の会長となる佐伯平蔵(さえきへいぞう 1878-1943)でした。 本格的に黒部の渓谷探検を始めるのは、大正7年(1918)です。このときは、立山から御山谷(おやまだん)を下り、激流の黒部川を渡れる数少ない場所のひとつ、平(だいら)から御前谷(ごぜんだん)を探り、タンボ沢から立山に折り返して室堂(むろどう)に出ています。 富山県側から黒部に入るにはいくつかのルートがあります。佐々成政(さっさなりまさ)の「さらさら越え」で有名な立山(標高3,015m、立山町)、薬師岳(標高2,926m、富山市)のあたりから現在の黒部ダムの上流部に入るルートや、現在の宇奈月温泉のあたりから白馬岳周辺の支谷(しこく)の流域をたどって行くものが代表的なルートです。黒部奥山、特に、現在の黒部ダムから下流の下ノ廊下(しものろうか)に精通しているのは宇奈月側の人々でしたが、剱岳(つるぎだけ 標高2,999m、立山町・上市町)に名前を残す和田(現在の富山市和田)の宇治長次郎(※3)と組んで黒部探検を進めることとなりました。平蔵の薦めもあったのでしょうし、山に対して独特の勘があると評判の長次郎の力を未知の渓谷探検で使いたいと考えたのかもしれません。 立山町芦峅寺などには、かつて「仲語(ちゅうご)」といって立山信仰登山の案内をしていた人々がいました。山仕事や登山者を宿泊させる宿坊を営み、立山までの道案内をしていました。早くから信仰登山で開けた立山と対照的に、その向こう側の「黒部八千八谷(くろべはっせんやたん)」はまだまだ未開の地でした。 ※3 宇治長次郎(うじちょうじろう 1871-1945) 富山県上新川郡大山村(現富山市)和田の出身。新田次郎の名作『剱岳<点の記>』にもその活躍が描かれる。温和誠実な人柄で登山家から愛された。剱岳の長次郎谷は、初登の功労者、彼の名を取ったもの。立山山麓スキー場には彫像が建てられている。 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ 【2/28(金)~3/2(日)】インターネット相談窓口等の受付停止のお知らせ 4/13(日)マイナンバーカードの休日窓口を開設します KOKOくろべで「健活」&「クラフト体験」 大雪に関する情報はこちらから(令和7年2月17日更新) 防災まちづくり講演会を開催します! 令和6年度黒部市高齢・障がい福祉施設等物価高騰対策支援金について 宇奈月温泉スキー場からの大雪に関するお知らせ 第7回マイプロジェクト発表会を開催します! 【2/21(金)】 お知らせ一覧へ