ホーム お知らせ 吉沢庄作(よしざわしょうさく 1872-1956) 吉沢庄作(よしざわしょうさく 1872-1956) 2009年2月13日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■山岳に目覚める 庄作さんは10歳のころ、植木村(現在の黒部市植木)の吉沢家の養子になりました。その家から振り仰ぐと、左には大蓮華山(現在の白馬岳)、右には僧ヶ岳が優しく美しくそびえ立っているのが見えました。 庄作さんは、富山県尋常師範学校(現在の富山大学)へ進学しました。そこで、富山県近代登山のさきがけ的存在であった小杉復堂さん(※2)と出会います。漢学者でありながら山を愛した復堂さんは、しばしば庄作さんとともに山行し、山の厳しさ、山のもつ崇高な精神性に触れさせたのです。幼いころは憧れて仰ぎ見るだけだった僧ヶ岳が、次第に、自分の足で登ってみたいという強い思いを抱かせる存在へと変化していきました。 明治25年(1892)、20歳の時、庄作さんは4人の仲間とともに僧ヶ岳に登りました。初めて見る植物や動物、石や川、すべてのものが目映いほどに美しく、庄作さんの心を激しく打ちました。その時の印象は『僧嶽紀行』としてまとめられており、選び抜かれた力強い言葉で表現されています。 山に登るという行為にとどまらず、文学的にその感動を書き著すというところに小杉復堂さんの影響をうかがい知ることができます。また、この記録は僧ヶ岳を初めて世に紹介したものでした。この登山ののち、庄作さんは博物学者として、登山家としての道を歩むようになります。 ※2 小杉復堂(こすぎ ふくどう 1854-1928) 富山藩の漢学者、富山師範学校等の教師。登山を好み、近代登山が始まったばかりの時期に精力的に未知の山谷を踏み分け、力強い文章を書き残しました。西洋の影響を受けずに東洋的・伝統的な方法で数々の山を制覇していきました。学校引率登山をはじめた人。 ■大蓮華山への憧れ 「どうしても黒部谷から大蓮華山へ登りたい。」 野山を調査しながら登山を続けていた庄作さんは、いつしかそう思うようになりました。 大蓮華山とは現在の白馬岳のことで、富山県と長野県にまたがる究極の秘境です。長野から見ると屏風のように切り立った断崖絶壁であり、富山から見ると黒部川の流れに沿って立ち上がっている緩やかな印象を抱かせる山です。3,000m級の高山にもかかわらず、海が近くにあり、気候の変化に富むことから、非常に多種多様な植物が生育する山です。 庄作さんにとって、僧ヶ岳がふるさとの山であるのに対し、大蓮華山はなんとしても頂上を征服したい山でした。 しかし、庄作さんの生きた明治・大正期の黒部峡谷は、現在のように拓けていませんでした。江戸時代の黒部峡谷は、狩猟者が山野を踏み分ける程度で、一般入山が禁止されていた秘境です。明治になって禁が解かれ、ようやく入山できるようになったばかりでした。庄作さんが黒部へ踏み入ったのは、開発の手が入る前のそんな時期でした。 大蓮華山に登るのには、長野側からのルートが一般的でした。黒部側からのルートは距離が長く、山が非常に険しいので、ほとんど通る人がいませんでした。加えて、入山禁止が解かれて時間もあまり経ってなかったので、黒部側から大蓮華山へどういうルートがあるのか知られていなかったというのも大きな要因です。 庄作さんが大蓮華山行きを志した時代には、まだ宇奈月温泉も開かれておらず、電車もなかったので、愛本から先は歩いていかなくてはなりません。それでも、庄作さんは、知られざる黒部の自然を味わいながら、遠くにあってなかなか人を寄せつけない大蓮華山の頂上に立ちたいと強く願っていたのです。 それに、黒部から大蓮華山へ登るルートには、だれもが見たことのない景色に出会えるという期待と、学術上の成果を挙げられるのではないかという期待に満ちあふれていました。 登山路が整備された今でも難しいこの挑戦は、ある人物との出会いによって実現への一歩を踏み出します。黒部の主と言われる佐々木仁次郎さんとの出会いです。明治39年、庄作さんは、祖母谷温泉に泊まっていたとき、大蓮華山への思いを湯元の朝田さんにお話ししました。すると、朝田さんの使用人にそのあたりの地理に詳しい人がいるということが分かったのです。 【立山山頂にて 山案内人佐々木助七と吉沢庄作】 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ 大雪に関する情報はこちらから(令和5年1月30日更新) 市営住宅等入居者一般募集の一時停止について 寒波に伴う水道の節水について 道の駅KOKOくろべ 無料クラフト体験教室 KOKOくろアツアツ鍋まつり2023 KUROBEアクアフェアリーズが道の駅KOKOくろべにやって来る! 1月27日(金)より宇奈月温泉スキー場オープン! KOKOくろべ雪まつり2023 お知らせ一覧へ