ホーム お知らせ 吉田 忠雄(よしだただお 1908-1993) 吉田 忠雄(よしだただお 1908-1993) 2009年2月9日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■兄弟の団結と周りの人々の協力 サンエス商会を始めたころ、忠雄さんは金づちでファスナーのムシをたたいたり、はさみでテープを切ったり、ムシの植え付けをしたりしました。そして、不良品のないじょうぶなファスナー作りに精を出しました。 また、ファスナーで1本立ちしてから、忠雄さんは2人の兄に上京して一緒に会社をやろうと何度も手紙を書きました。何回もたのんだ結果、ようやく入社してくれました。2人の兄は、社長の兄だからといって偉ぶることなく、他の社員以上に一生懸命働きました。忠雄さんが働きすぎて病気になって入院したときも、戦争で兵隊として徴兵されたときも、いつも2人の兄は、会社を支えてくれたのです。 【昭和20年代の作業風景(電解メッキ工場)】 ■戦後の苦難と復活 忠雄さんは、工場を疎開先の魚津に移し、再建に取りかかりました。 「振り出しにもどっただけだ。」 これまでのことを思えば、やっていく自信は十分ありました。忠雄さんは必死になって満足いく製品作りに励みました。こうして、工場にも活気がもどり、吉田工業所が作ったファスナーは国内では優良品として通用するまでになりました。 昭和22年にアメリカへの輸出を考えていた忠雄さんのところへ、製品を見にアメリカ人が訪ねてきました。 製品を見るとすぐに、アメリカ人は、「わが国のファスナーに比べ品質がよくありませんね。しかも値段が非常に高い。これでは、とうてい取引はできません。」と言って、笑いながら、アメリカの優秀なファスナーを見せつけたのです。忠雄さんは、日米の製品のちがいにがく然としました。手作業で物を作ることの限界を感じました。そして、アメリカのファスナー自動製造機を輸入しなければならないと思ったのでした。 しかし、その機械はとても高くて簡単に買えるものではありませんでしたが、忠雄さんは思い切ってその機械を注文し、近代的なファスナー工場を完成させました。 昭和30年に黒部市で工場を建設し、伸銅工場(しんどう)、紡績工場(ぼうせき)、織機工場(しょっき)などを次々に建設し、原料から製品、そして工場内の機械まで、すべてのものを自分の会社で生産する目標を実現しました。 また、新製品の開発や生産をも行うようになり、国内市場を独占するまでになりました。さらに本格的に海外進出し、YKKという会社とその商品は、海外でも高い評価を受けるまでになりました。 【輸入自動植付機(1950年暮れ)】 コラム 「善の巡環」 「善の巡環(ぜんのじゅんかん)」は忠雄さんが考え出した言葉です。これは、自分の目先の利益よりも周りとの関係を重視し、自分だけ成功するのではなく、関係するすべての人が成功することが結局、自分に跳ね返ってくるという考え方です。忠雄さんは、小学校の時に読んだ「鉄鋼王、アンドリュー・カーネギー」の伝記から学びました。 カーネギーはアメリカの鉄鋼業界で活躍した実業家で、文化や教育などの発展にも力を注いだ人です。 『語りつぎたい黒部人~黒部に足あとを残した人々』へ戻る 西暦 年齢 項目 1908 中島村(現在の魚津市)に生まれる 1928 20 上京し、古谷商店に就職する 1934 26 サンエス商会を創業する 1945 37 東京大空襲で工場が被災した 1945 37 魚津に疎開し、吉田工業株式会社を再興する 1955 47 黒部工場(現在の黒部牧野工場)起工式 1959 51 完全一貫生産が実現する 1962 54 黒部市名誉市民となる 1978 70 勲章を受ける 1993 84 亡くなる 最新のお知らせ 文化勲章受章記念&「黒部心象 鉄塔」披露特別展 田渕俊夫ー大地のうたー のお知らせ 大雪に関する情報はこちらから(令和7年1月14日更新) 令和7年度 会計年度任用職員の募集 黒部市美術館開館30周年 コレクション展vol.1「木々の語らい-木版画と彫刻と」のご案内 黒部市立あおーよ図書館ボードゲームイベントについて 祝・20歳を迎えられた皆さんへ 【1/11~】宇奈月温泉冬物語 雪上花火大会が開催されます! 「電話リレーサービス」「文字表示電話サービス(ヨメテル)」について お知らせ一覧へ