ホーム お知らせ 田中 冬二(たなかふゆじ 1894-1980) 田中 冬二(たなかふゆじ 1894-1980) 2009年2月6日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■高村光太郎賞 『青い夜道』で華々しく詩壇にデビューを果たした翌年『海の見える石段』を発表し、詩人としての地位を確立しました。その後も、全国各地で安田銀行の重役として勤めながら、静かに詩作を続けていました。 冬二さんが67歳の時に発表した詩集『晩春の日に』で、詩人として栄誉ある高村光太郎賞(※2)を受賞しました。『晩春の日に』に収められている、生地を舞台とした詩をご紹介します。 ―故園の鍋― 暗い軒に霙がして 海は荒れ気味である 「伯父さん 庚申松の下に大鍋を置くと 五位鷺が黒鯛を落としてゆくんですね。」 幼な心に帰つて私は言ふ 私にとって今は唯一人の伯父に ふるさとは その大鍋に 何かたつぷり あたたかいものの欲しいやうな日だ ※2 高村光太郎 たかむらこうたろう(1883-1956) 大正・昭和時代の詩人・評論家、彫刻家。雑誌『スバル』に詩や美術評論を発表し、ヨーロッパの近代芸術思潮を広く紹介しました。大正3年に最初の詩集『道程』を、昭和16年に詩集『智恵子抄』を発表しました。彫刻作品の中では「手」「裸婦像」が有名です。 ■なぜ詩を作るのか 冬二さんは、「詩はつくりたいから、つくるまで。」、「自分自身のたのしみからつくっている。」と言っています。しかし、作りたい、楽しみたいだけでは、一つの詩を作るために半年も苦しんだりはしないでしょう。冬二さんが詩にこだわるのには、理由がありました。 「芸術は長く、人生は短かし」という言葉があります。それは、富や名誉、そして地位も、そのほとんどは時が経てば忘れ去られてしまうのに対し、芸術は永遠に朽ちることがないということを表しています。「永遠不朽」というところに芸術の価値があり、芸術に親しみ生きる者の甲斐があるのです。 冬二さんが、詩を作るのは、詩の中に自分の世界をもちたいからであり、詩は何人からの制約や拘束を受けることがないからだということを随想に書いています。また、「自らに最もきびしくあることは、詩を作る人の本領であるべきだと思う。」とも言っています。 冬二さんは、限りない愛着を感じていた自然や風物を、自らの詩の題材とし、洗練された言葉で「芸術」を追究した詩人です。冬二さんの詩は、永遠なる美しいフレーズで私たちのふるさとを語り続けているのです。 コラム 山の雪売り 冬二さんの『ふるさとにて』の中に出てくる「山の雪売り」とは何のことでしょうか。 冬二さんの時代には、現在のように各家庭に冷蔵庫がなく、氷を手に入れることも難しい時代でした。雪が降る時期に、村民が総出で雪山をつくったものです。少しでも長い時間溶けないようにするため、屋根をふいた小屋の中に、雪をふみかため、閉じこめたのです。黒部市金屋の浄永寺近くの田んぼに、その小屋がありました。 夏になると、売り子たちが、その硬い雪氷を売りにきたようです。その雪氷は、氷枕にしたり、かき氷として涼しさを味わったりしていました。 「雪売がくると、やさしい祖母は私や弟にそれを買ってくれた。山のカンカン雪は氷のやうに固く鋸で挽いた。祖母はそのカンカン雪をコップに入れて砂糖をかけてくれた。コップは硝子の大へん厚い重たいものであつたやうに記憶してゐる。板敷に敷いた花茣蓙の上で足を投げ出して私たち兄弟はたのしく食べた。」 田中冬二「山の雪売」より 『語りつぎたい黒部人~黒部に足あとを残した人々』へ戻る 西暦 年齢 項目 1894 福島市に生まれる 1908 14 立教中学(現在の立教池袋中学校・高等学校)へ入学する 1912 18 『文章世界』に投稿した「旅にて」が特選となる 1913 19 安田系第三銀行に入社する 1929 35 第1詩集『青い夜道』発行。文学界で注目をあびる 1949 55 富士銀行本店人事部調査役を最後に退職する 1962 68 『晩春の日に』で高村光太郎賞を受賞する 1971 77 日本現代詩人会会長となる 1977 83 勲章を受ける 1980 85 東京で亡くなる 最新のお知らせ 黒部市手話講習会入門講座の受講者募集 黒部市歴史民俗資料館 メタバースに「愛本刎橋」が登場! 能登半島地震に関連する市からの情報 黒部市立地適正化計画改訂版の公表について 石田漁港の釣桟橋は、4月10日(水)から利用できます! 令和6年度 当初予算の概要 令和6年度市民農園新規利用者 随時募集中!! 令和5年度 詩の道句集事業 選定結果のお知らせ お知らせ一覧へ