ホーム お知らせ 佐々木 大樹(ささきたいじゅ 1889-1978) 佐々木 大樹(ささきたいじゅ 1889-1978) 2009年2月5日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■高岡の工芸学校時代 尋常高等小学校の卒業を間近にしたある日、長次郎さんは自分の思いを思い切って父に告げました。反対されることを覚悟して、高岡の工芸学校へ進みたいと。頑固者だった父は、意外にもあっさりと、了解してくれたのでした。 明治37年、富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高等学校)の木工科彫刻部本科に入学した長次郎さんは、本格的に木彫を学ぶことになるのです。 さて、この学校は、明治27年に創立され、美術や工芸を教える学校としては全国的にも有名でした。そして、この学校からは数々の芸術家が育っていったのです。たとえば日本画では郷倉千靱(ごうくらせんじん 1892-1975)さん、工芸の山崎覚太郎(やまざきかくたろう 1899-1984)さんなど日本を代表する作家がこの学校の出身者です。 芸術的な環境の中で、長次郎さんは木彫に没頭し、その力量を存分に発揮しました。学業優秀の成績で卒業した長次郎さんは、次なる目標へと向かっていきました。 ■東京美術学校時代 さらなる木彫の追求の場として東京美術学校(※1)彫刻科本科木彫部へ進学しました。明治41年、長次郎さん19歳のときのことです。 当時の美術学校彫刻科には、日本の彫刻界を代表する優れた教授がいました。その一人、竹内久一(たけうちきゅういち 1857-1916)さんは東京美術学校開設に際して岡倉天心(おかくらてんしん 1863-1913)さんに迎えられた木彫家で、奈良の古い木彫の研究家でもあり、明治期の木彫の基礎を確立した人物です。もう一人、高村光雲(たかむらこううん 1852-1934)さんは、衰退していく日本の木彫を守り、数々の名作を世に残した彫刻家でした。 この偉大な二人から多くのことを学ぶのですが、それは技術的なことよりもむしろ彫刻家としての精神的なことでした。それは「自分のやりたいことをやるだけだ、一生懸命にやれば、道はおのずから開けるものだ。作家の仕事はひたすら美を追究することだ、仕事以外のことは斟酌(しんしゃく)することはない。」竹内久一さんのこの言葉は、長次郎さんの一生涯の教えとなったのです。 近代彫刻の精神とあり方を二人の先生から学び、ひたむきに制作に取り組みました。しかし、美術学校を卒業するころになると、自分の作品に何か物足りなさを覚え、彫刻に対して迷いを感じはじめるのでした。 「想見」 黒部市教育センター蔵 ※1 東京美術学校 アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa1853-1908 東洋美術史家)、岡倉天心(1863-1913美術家)らが中心となって設立し、1889年に開校した国立の美術学校。当初は日本画・木彫・工芸の三科で、のちに西洋画科・建築科などがおかれました。1949年に東京音楽学校と合併して、現在の東京藝術大学となりました。 (続きを読む・・・) 最新のお知らせ 黒部市職員採用試験について(令和8年4月1日採用) ゴールデンウイーク期間中(4月28日~5月6日)の市内路線バスの運行について 【令和7年度】5月~7月実施分 スマホ教室参加者募集中! GW期間中は、新幹線駅周辺駐車場が満車になるおそれがあります! 「第2期黒部市スポーツ推進プラン」を策定しました 令和7年6月定例会の日程をお知らせします 春の農業用水路転落事故防止強化期間について 令和7年度営業開始時期について【とちの湯】 お知らせ一覧へ