ホーム お知らせ 伊東 森作(いとうもりさく 1897-1997) 伊東 森作(いとうもりさく 1897-1997) 2009年2月6日更新 このページを印刷する シェア ツイート 【水の勢いで土を掘っています】 ■流水客土事業の実現 「戦争中に手がけた流水客土を黒部川扇状地の田に実施し、どうしても食糧増産しなくてはならない。」 と森作さんは決心しました。しかし、これほどの大きな事業には莫大な資金と政治の力が必要です。農会技師の力だけではできません。そこで、当時の国会議員や県会議員に話をもちこんでみましたが、だれも相手にしてくれませんでした。そこで、森作さんは「よしッ、彼らがやらないなら俺がやってやる。」と意気込んで富山県議会議員選挙に立候補し、当選しました。 県会議員となった森作さんは、流水客土の重要性を近くの町村長に熱を込めて説明してまわりました。その中でも、新屋村長(現在の入善町新屋)袖野与太郎さん(そでのよたろう)は、流水客土の実験を見て、 「これは名案。これこそわが新屋村を救う道である。この事業こそ袖野の終生の仕事である。」 と言うほどの力の入れようでした。地元の人たちによって黒部川流水客土促進期成同盟会が結成され、ついに県の事業として3億5,000万円の予算で実施することが決まりました。 黒部川右岸は昭和26年から、左岸は28年から開始されました。その結果、黒部川扇状地の水田は長く水を保っておけるようになり、冷害が減少しました。また、客土によって鉄分が多くなったために秋落ちも少なくなり、米が15~30%も多くとれるようになったのです。 その後、各地から多くの視察団が訪れ、県内はもちろん、石川県でも流水客土が実施されました。赤土を流して土壌を改良し、食糧増産したいという森作さんの悲願は約7年を経てこうしてかないました。 ※ 喜びを分かち合いたい 森作さんは、流水客土事業の成功によって農民たちの生活が豊かになったことを、まるで自分のことのように喜びました。そして、流水客土のヒントを与えてくれた宇奈月町の医師藤田与次さん(1885-1942)がこの世にいらしたら、一緒に喜び合えたのにと思い出にふけったものです。 コラム 中国にケヤキを植える 森作さんの息子伊東哲男さん(いとうてつお)は、昭和54年、日中友好のため「青年の船」で、若い人たちと一緒に中国へ行きました。その時に見た中国の樹林がとても貧弱だったと森作さんにお話ししたそうです。 それを聞いた森作さんは、「戦争によって中国には大きな損害を与えたのだから、せめてスギやケヤキの苗でも植えてもらい、おわびのしるしとしたい。」と思いました。 その時は具体的に実現する方法がなく、すぐにはかないませんでした。その後、中国の農業技術者と交流されている富山県立技術短大教授の足立原貫先生(あだちはらとおる)を知り、直接お願いしました。足立原先生のおかげでケヤキ5,000本、スギ1,000本の苗が中国湖南省の山林に植えられ、ようやく森作さんの願いがかないました。 約20年後、森作さんの遺族は、足立原先生と中国を訪ねました。ケヤキは、大きく育ち、幹の直径が20センチにもなっていました。 ことばではなく、100年、200年、緑の葉を茂らせる友好のしるしが根づき始めているのを、亡くなった森作さんはじっと見守っていることでしょう。 『語りつぎたい黒部人~黒部に足あとを残した人々』へ戻る 西暦 年齢 項目 1897 大布施村に生まれる 1912 15 下新川郡立農業学校を卒業する 1917 20 大布施村農会技手となる 1931 34 新黒部西瓜1号の開発に成功する 1938 41 新黒部西瓜7号の開発に成功する 1947 50 富山県議会議員となる 1952 55 黒部川冷水地帯土地改良総代となる 1954 57 黒部市農業委員会会長となる 1967 70 土地改良などの功労で褒章を受ける 1997 99 亡くなる 最新のお知らせ 令和7年度黒部市公募提案型協働事業公開プレゼンテーション審査会を開催します <3/30(日)>あおーよde出会いカフェ★ 令和6年度 詩の道句集事業 選定結果のお知らせ 勤労青少年ホームの愛称決定! 第7回マイプロジェクト発表会(開催結果) 黒部マチヂカラ商品券を販売いたします! 市保有財産(土地)での事業希望調査の実施(募集) 【令和7年6月30日まで受付】『令和7年大船渡市赤崎町林野火災義援金』の受付について お知らせ一覧へ