ホーム お知らせ 佐度 忠作(さどちゅうさく 1910-1966) 佐度 忠作(さどちゅうさく 1910-1966) 2011年1月26日更新 このページを印刷する シェア ツイート ■扇状地にあった弥生時代の遺跡 【魚津桜峠を発掘】 『宇奈月町史』や『黒部市誌』の石器時代の記述は、忠作さんの研究成果をもとに書かれました。 1つ1つの遺跡を分析し、研究する人はたくさんいましたが、忠作さんのように広い視野をもっている人はあまりいませんでした。 忠作さんは、―黒部川扇状地のどんなところに、遺跡が存在しているのか―ということを理解した初めての人なのです。遺跡というのは存在する場所だけでなく、他の遺跡との関係など、広い目で見て、初めてその性格がわかります。 遺跡から発見されるのは、土器や石器などの出土品、そして貝塚や建物跡などです。そこには、ただ「モノ」が存在するだけです。それらを記録し、出土地点を地図に書き入れ、出土品や遺跡がどんなところにあるかという特徴から、その時代を知ろうとしたわけです。 忠作さんの活躍していた時代の黒部市では、縄文時代の遺跡はたくさん発見されていたのですが、弥生時代の遺跡はひとつも見つかっていませんでした。 「弥生時代は、黒部市に住む人がいなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。」 不思議に思った忠作さんは、弥生時代の遺跡が発見されていない理由を、それまで調べてきたことをもとに分析してみました。 ①狩猟・採集が主だった縄文時代は、水や食べ物を得やすく、高台や見晴らしのよい場所でそれぞれ住んでいたから、あちこちに遺跡が発見される。しかし、弥生時代には集団で農耕するために、縄文時代とはちがった場所で暮らしていたから、発見されにくいのではないか。 ②弥生時代の農耕は、水の豊富な低湿地で行われていたと考えられる。しかし、そうした場所は、上流から流されてきた土がたくさん積もり、地中深くに埋まっているから、発見されないのではないか。 ③もし、弥生式遺跡が発見されるとしたら、低湿地の黒部市田家、堀切、高志野中学校、栃沢をむすぶ標高5メートル線周辺の場所であろう。 長い年月により、地層がバームクーヘンのように積み重なっているのと同じく、考古学研究というのも、過去の研究者の成果のうえに、新しい研究者の成果が積み重なっていきます。 忠作さんが亡くなってから約40年後、まさに予想したとおりの場所―堀切―から弥生時代の遺跡が発見されました。この堀切遺跡の発見をだれよりもよろこんでいるのは、他ならぬ忠作さんだったことでしょう。 『語りつぎたい黒部人~黒部に足あとを残した人々』へ戻る 西暦 年齢 項目 1910 石田村に生まれる 1922 12 石田尋常高等小学校を卒業する 1927 17 富山県立上市農学校(現在の上市高等学校)を卒業 1930 20 富山県立実業補習学校教員養成所を卒業。小学校本科正教員の免許を取得する 1940 30 『一般と郷土の石器について』を出版する 1954 44 黒部市文化財調査委員となる 1957 47 内山小学校で退職を迎える 1963 53 黒部市教育文化功労賞を受ける 1966 56 亡くなる 最新のお知らせ 【2/28(金)~3/2(日)】インターネット相談窓口等の受付停止のお知らせ KOKOくろべで「健活」&「クラフト体験」 大雪に関する情報はこちらから(令和7年2月17日更新) 防災まちづくり講演会を開催します! 令和6年度黒部市高齢・障がい福祉施設等物価高騰対策支援金について 宇奈月温泉スキー場からの大雪に関するお知らせ 第7回マイプロジェクト発表会を開催します! 【2/21(金)】 JRにおける精神障害者割引制度の導入について お知らせ一覧へ