ホーム 教育・文化・スポーツ 文化 芸術・文化 市指定文化財[絵画] 市指定文化財[絵画] 2023年3月24日更新 このページを印刷する シェア ツイート 川中島合戦絵馬 市・絵画 昭和三四年二月一〇日指定黒部市石田六四二九(神明社) 絵馬は本来、神に対する祈願のために奉納されたものである。たとえば、目とか手足とか身体の悪いところを描いて、神仏にここをなおしてくだいと注意を喚起するのが本旨であった。したがって、生馬の絵を描いたものもその安全を祈願するためのものであり、神仏によって効能と図柄が決まっていたといわれている。ただし、絵馬の中でもこの神社のように著名な画家などの手になった大絵馬は、信仰的な小絵馬と違って社寺の装飾を兼ねて、神仏に対するお礼の意から奉納されたものである。 大絵馬は、京都の北野天満宮(土佐光秀・鎌倉末期)が、三六歌仙を一人一枚に描いて納めたのが最初だと伝えられている。また、関東では武州川越の喜多院(岩佐又兵衛・江戸初期)が三六枚の歌仙扁額を描いたので有名である。以来、著名な社寺には多く大絵馬が飾られるようになった。 この神明社の川中島合戦図絵馬は、一〇代富山藩主前田俊保に絵を教えた山下守胤が七七歳の時に描いたものである。 この絵馬の裏には寄進者の名前が百名ほど記されている。厚さ四㌢のケヤキの板で縦八八㌢、横五〇三㌢で文久三年(一八六三)に描かれ、その大きさ、絵の優秀さにおいて県内随一である。 ●富山地方鉄道「石田駅」下車、徒歩五分 喜多川相説「四季草花図押絵貼屏風」 市・絵画 昭和五九年一〇月三一日指定黒部市堀切一〇三五(黒部市美術館) 喜多川相説は、加賀前田家の庇護をうけた俵屋宗雪(生没年不詳、寛永一九年(一六四二)法橋に叙せられる)の後継者と目され、一七世紀後半頃活躍した。北陸地方に多くの作品を残している。 この屏風は、縦一・二三㍍、横四四㌢、一双一二扇に四季の草花を精巧な描写で描いている。宗雪、相説を通じて絹本に書かれた作品として現存するのは今のところ、この作品のみである。 墨と岩絵具、水干絵具を併用して後の琳派のたらし込み技法を用い、それらを相説なりにまとめて一つの作風を構成し、「喜多川法橋相説七二才之画」の款記があり、印章に白文の「伊年」方印、朱文の「宗説」丸印が押されている。このことから相説が法橋の位を受けていたこと、七二歳にはまだ制作活動をしていたこと、さらに晩年には独自の印たる「宗説」印を使用したことが分かる貴重な作品である。 宗雪、宗説、相説共に出生及び伝記等まだ詳らかでないが、わが国では俵屋伊年の屏風として昔から貴重視され、愛好されているものである。 ●あいの風とやま鉄道「黒部駅」下車、徒歩三〇分 元禄二年銘「鶏之図」絵馬 市・絵画平成四年六月二九日指定 黒部市三日市一〇三六の一(八心大市比古神社) この絵馬は、延喜式内社、八心大市比古神社(通称・三島さま)に奉納されている。神社の起源は古く、延長五年(九二七)の延喜式神名帳に記載されていて、この社の神の使いは鶏であり、三日市及び周辺の氏子は鶏肉を食することを禁忌としている。 絵馬には、つがいの鶏が描かれ、雄鶏は正面真ん中に尾を大きく開き、鶏冠をいからし、左足は大地を力強く踏みしめ、右足は腹部まで上げ、眼光鋭く、正面をにらむが如く威厳を放っている。左側には餌でもついばむように頭を下げ、穏やかな表情の雌鶏が対照的に描かれた見事な構図である。鶏冠には朱色、全体を胡粉で白く上品に塗り、黒色の細い線で仕上げている。 額縁絵馬全体寸法は縦約四一㌢、横約六〇㌢、杉の一枚板の板地著色で描かれ、絵馬の表と裏に次の文字が書かれている。 「 右表書 奉掛御神前望叶成就所敬白 左表書 元禄貮巳暦卯月吉日 三日市 銭屋利太郎 裏書 三島大明神宮守左内(印) 橘式部卿陰陽師左門 」 奉納されたのは元禄二年(一六八九)で奉納者は地元、三日市の銭屋利太郎である。鶏之図の絵馬としては、県内最古といわれ貴重である。 ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、徒歩五分 春秋耕作図絵馬 市・絵画平成四年六月二九日指定黒部市前沢七二三(八幡社) 黒部市前沢の八幡社に奉納された絵馬である。 春秋耕作図とは、米が出来上がる過程の農作業の様子を描いた構成からなる。 絵馬の構図は右上から始まり、三月、早いところで二月の荒起こしの初仕事から描かれ、田植えの様子や、米が出来上がり俵に詰められた収穫の喜びなど、人物の生き生きとした表情の豊かさや、農作業の動きがリアルに描かれている。 その年々の予祝か、秋の豊作、感謝のいずれかを願っての生業の図である。農業絵馬の奉納が極端に少ないため、日本農業史研究の上でも貴重であり、北陸地方でも屈指の評価がある。 この絵馬は、縦一〇六㌢、横一八二㌢あり、杉板四枚を横に並べた大きな板地著色となっている。 絵師は、本町や荒町(現・魚津市)などに住み、家業の染物の下絵の手描きのかたわら、花鳥画をよく描き、文化、文政、天保年間に活躍した江嶌景筌源緊直と言われている。八幡社の絵馬の絵師名は、江嶌源繁直と記されている。 裏書によると奉納は、文政一四年(一八三一)庚寅八月(庚寅は干支で文政一三年)で、世話人二名、寄進人一八名と、志方(名前記入以外の人々の寄進額)で、寄進額合計、銭(銀)三貫百二十一文となっている。 ●富山地方鉄道「東三日市駅」下車、徒歩三〇分 阿弥陀仏絵像 市・絵画平成七年一二月二二日指定黒部市生地一八五(願楽寺) 生地の真宗大谷派願楽寺が所蔵している阿弥陀仏絵像は、真向きの立像で、本願寺教団で使用する方便法身尊形の典型的な容姿を具備している。上品下生印をむすび両足をそろえて直立する。光明が直線四八条で、それは身光のように尊像全体から発している。 阿弥陀如来は画幅に対してやや大きく描かれており、肩幅は広くゆったりとした丸みをおび、本願寺第九世門主・実如上人(一四八七~一五二四)の時代の本尊の特色を示している。どの方向から見ても、仏の目が私の方を見つめているように見えるので、真向きの御影と呼んでいる。 阿弥陀如来とは、無量寿あるいは無量光という言葉のサンスクリット語を訳したもの。この仏の寿命は限りなく、この仏の光はあらゆる国々、人々を照らす、という意味である。その阿弥陀如来の役割とは、その阿弥陀如来がたてた四八の誓願のうちのひとつ阿弥陀如来を信ずる者はみな極楽浄土に往生させるというものである。 元禄一一年(一六九八)常陸国河内郡久米村(現・茨城県)の如来寺(天台宗)から願楽寺第一七世・宗誓が譲り受けてきたものと伝えている。 絹本著色軸物、縦七四㌢、横三三・〇㌢、絹布は粗い平織りである。 ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、富山地鉄バスで生地行き「四十物町」下車、徒歩一分 あいの風とやま鉄道「生地駅」より二㌔ 天竺・震旦高僧連坐像 市・絵画平成七年一二月二二日指定黒部市生地一八五(願楽寺) 生地の真宗大谷派願楽寺が所蔵する天竺・震旦高僧連坐像は、全体に剥落がはげしいものの、わずかに窺える像容の彩色などから判断すると、かつては群青地に朱を基色とした、華麗な色調で描かれていたと想定される。 図様は、下段に天竺(インド)の三菩薩、大勢至菩薩を中央に向かって左が龍樹、右が世親の二菩薩、震旦(中国)の七高僧は慈愍三蔵・曇鸞和尚・道緯禅師・善導和尚・懐感禅師・少康法師さらに上段に法照禅師となる。札銘に慈愍三蔵とあるものが菩提流支三蔵とあるものより古い形態をとどめている。 震旦高僧の椅子に見える黄金色は、金泥の補彩である。願楽寺蔵の和朝太子先徳連坐像の座具に、当初からの細やかな截金があり、それと同一の形態にするために施されたものではなかろうか。 絵絹の天地には切断の痕跡があり、元来賛銘があったようである。この連坐像の制作や伝来について、詳らかにする文献はない。ただ、人物の描写に鎌倉時代の似絵の遺風を多く残しており制作年代は鎌倉時代一四世紀初頭までさかのぼるものではなかろうか。仮に制作の年代が少し降るとしても、最も古い作風にあることは疑う余地がない。 絹本著色軸物、縦九五・五㌢、横三六・一㌢ ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、富山地鉄バスで生地行き「四十物町」下車、徒歩一分 あいの風とやま鉄道「生地駅」より二㌔ 十字名号 市・絵画平成七年一二月二二日指定 黒部市生地一八五(願楽寺) 生地の真宗大谷派願楽寺が所蔵している十字名号は墨筆で書かれている。 光明本尊というのは名号(仏の名前)から放たれる光明のなかに、釈迦・弥陀二尊や天竺(インド)・震旦(中国)の高僧、聖徳太子とその一族・日本の高僧(和朝先徳像)などが一幅で描かれた絵画で、光明本、光明品ともいう。 願楽寺の光明本尊は三幅からなり、中央にこの光明のない金泥でない十字名号「帰命尽十方無碍光如来」、左側にインド・中国の高僧、右側に聖徳太子とその一族・日本の高僧が描かれている。 十字名号は、南無阿弥陀仏と同じ意味である。名号は籠文字で書かれている。蓮台には截金が用いられ蓮弁でかたちづくられている。 最も古いという愛知県の妙源寺系に属する光明本は、金泥の九字名号を中央にしている。願楽寺は十字名号を中央に、妙源寺光明本をなぞらえる形態となっている。 この十字名号は、絹布がかなり粗く、南北朝時代か室町時代初期に制作され、もとは、天地に賛銘が書かれていたとも考えられる。かつて常陸国(現・茨城県)の光明寺から元禄一一年(一六九八)願楽寺第一七世・宗誓が関東旧蹟巡拝の際に譲り受けたと伝えられている。 絹本墨書軸物、縦九九・二㌢、横三三・二㌢ ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、富山地鉄バスで生地行き「四十物町」下車、徒歩一分 あいの風とやま鉄道「生地駅」より二㌔ 和朝太子先徳連坐像 市・絵画平成七年一二月二二日指定 黒部市生地一八五(願楽寺) 生地の真宗大谷派願楽寺が所蔵しているこの絵像は、和朝太子先徳連坐像のなかで逸品の一つにあげてよい。 垂れ髪の聖徳太子は截金で縁どられた華麗な礼盤の上に立ち、侍臣も、聖俗ごとに描き分けられた座具に坐する。先徳は八人であるが、上段の絵には切断の跡があり、あるいは、まだ数人の先徳がかつて描かれていたのかもしれない。 源信和尚・聖覚・信空・源空(法然)・親鸞以下の先徳には札銘が付され、善性・明性・□明の順で坐している。善性・明性の順序であるので、下総国磯部(現・茨城県)の善性系門流伝持連坐像と推定される。室町時代一五世紀中頃までの典型的で華麗な作品の一つである。 願楽寺には同じ表装された天竺震旦高僧連坐像さらに籠文字の十字名号を所蔵している。それぞれの制作年代は異なっているが、天竺震旦高僧連坐像の椅子に金を後に箔押しして、この連坐像の座具の装飾と同一の形態にしている。妙源寺本三幅対の光明本尊は金泥九字名号本尊にしているが、それに擬した形態をとったものと思われる。 絹本著色軸物、縦一〇〇・二㌢、横三八・八㌢ ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、富山地鉄バスで生地行き「四十物町」下車、徒歩一分 あいの風とやま鉄道「生地駅」より二㌔ 阿弥陀如来絵像(方便法身尊形) 市・絵画平成一一年三月二五日指定黒部市三日市(個人所有) 浄土真宗の一般在家における本尊礼拝の対象は、本願寺第八世門主・蓮如上人の頃は南無阿弥陀仏の六字の名号が一般的であった。その後、本願寺第九世門主・実如上人(一四八七~一五二四)の晩年期(一五〇〇年代)頃より、六字名号の本尊と共に絵像本尊も本山より下付されるようになった。 阿弥陀如来絵像は、室町時代中頃からその姿形は定形化され江戸時代もその形を踏襲している。 本尊の阿弥陀如来を方便法身の尊形と呼ぶ、如来の真実の智慧と慈悲が形になって現れたものという意味である。 三日市、八木兵太郎家に伝来する絵像本尊の描かれている絹本は、慶長年間(一五九六~一六一五)以前であることや、絵像が室町時代末の姿形の特徴を残しているなどから室町末期頃の作と考えられる。 絵像や光背などには金の箔を細かい線状や、三角あるいは四角の小片に裁断して、文様を描くように貼った截金の技法を用いている。浄土真宗における一般在家に下付された時代的形態の流れを知る上で、希少価値が高い。 絹本著色軸物で本尊の寸法は縦三八・五㌢、横一七・五㌢。軸物全体の寸法は縦六三㌢、横三〇㌢、で通称二百代といわれている画幅の大きさである。 ●富山地方鉄道「東三日市駅」下車、徒歩一〇分 伊年印四季草花図屏風 市・絵画平成一二年一月二七日指定黒部市堀切一〇三五(黒部市美術館) 春から冬にかけての三〇種以上の草花や蔬菜、花木、松竹を一双屏風に描きつらねた四季草花図である。落款はないが、各隻に朱文円印の伊年印が押されている。伊年印は俵屋宗達、宗達工房周辺あるいは、後継者の印章として知られる。 本作品は、四季草花という画題や、顔料に墨、染料を混用して陰影、質感を出す、たらしこみの技法を用いた草葉や花弁の描き方に宗達派の特徴がみられる。それぞれのモチーフは自然で繊細であり、蔬菜をふくめて草花の種類が多く、その形態や描き方は、やや古風といえる。しかし、余白をとった構図や瀟洒な画風には喜多川相説あるいは周辺の絵師の特徴がみられる。 この草花図は従来のものとくらべて春夏秋冬の順には描かれていない。また、多くの相説筆草花図では各草花の一部が霞などで隠されていることが多いが、本作品では全体が描かれている。以上のことから従来の作品とやや異なった点がみられる。いまだ不明な点が多いことから宗雪、相説の北陸での琳派の画の研究に極めて重要視される作品である。 ●あいの風とやま鉄道「黒部駅」下車、徒歩三〇分 芸術・文化 黒部市の文化財 黒部市年表 市準指定文化財 旧黒部市年表 旧宇奈月町年表 語りつぎたい黒部人 ~黒部に足あとを残した人々~ 教育委員会の後援を受けたいのですが。 黒部市史、宇奈月町史を購入したいのですが。 黒部にはどんな文化財がありますか。 国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 国指定文化財[天然記念物] 県指定文化財[天然記念物] 県指定文化財[史跡] 県指定文化財[民俗文化財] 市指定文化財[古文書] 市指定文化財[建造物] 市指定文化財[名勝] 市指定文化財[歴史資料] 市指定文化財[史跡] 市指定文化財[彫刻] 市指定文化財[絵画] 市指定文化財[民俗文化財] 市指定文化財[天然記念物] 黒部市コンベンション開催支援補助金 国指定重要無形民俗文化財