県指定文化財[史跡]

[更新日:2015年04月01日]

嘉例沢の石仏

県・史跡 
昭和四〇年二月一日指定
黒部市嘉例沢三〇五の二

 魚津市の東城から、福平・嘉例沢を経て下立に通じる古道の側にあり幅約五b、高さ約五・八bの凝灰岩の大岩に浮彫した五体からなる磨崖仏である。前面のほぼ中央に、左から地蔵菩薩立像三体が彫られている。この像は下の蓮華座とも総高約一bで、それぞれの印相・持物を違わせた古拙な半肉彫である。伝説では行基菩薩の作といっているが、近年の調査では室町時代の作である。

 その右側に、江戸時代の追彫とされる観世音菩薩立像、如来形の坐像の二体がある。観世音菩薩立像の光背部に「明和二年(一七六五)三三回忌為菩提」の文字がかすかに読みとれる。如来坐像には「□明禅尼菩提」と彫られている。

 県内では上市町日石寺の大岩不動明王坐像に次いで大きく古い磨崖仏である。地元では、五体像様といって大切にしている。昭和三二年七月、木造平屋建てのさや堂を建立し、その後、平成四年三月に改修し保存につとめている。

●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、池尻行きバスで「田籾」下車、徒歩一時間三〇分
 または、国道八号田家交差点から車で四〇分

 

嘉暦四歳銘五輪石塔

県・史跡
昭和四〇年二月一日指定
黒部市栃沢四一〇

 由来については不詳であるが、かつて荻生地区稲垣家の庭にあって、りょうしゅさまといわれ、地方の豪族の墓石ではないかとみられてきた。 

 一般には五輪塔とは、供養塔や墓標あるいは舎利塔として用いられ、地・水・火・風・空の五大をかたどった、五つの部分からなる塔である。下から順に、方形の地輪、円形の水輪、三角形の火輪、半月形の風輪、宝珠形の空輪と重ねられていて、各輪に梵字を刻んでいる。

 この石塔は安山岩の石造りで五輪石塔と呼んでいる。塔全体の高さは一b、地輪は幅三二・五a、水輪はやや壷型で幅の最大部は三三・五aである。火輪は高さ二一a、幅は三二・五a、風輪と空輪は一つの石で刻まれていて、高さ二八a、最大幅は一九aである。

 地輪中央のアの梵字の右に「嘉暦四歳七月廿七日」、左には「戍時他界」、「沙弥□道」と記されている。ちなみに嘉暦四歳とは嘉暦四年(一三二九)のことで、銘の刻まれたものでは、県内でもっとも古いものである。

●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、生地行きバスで「栃沢口」下車、徒歩一〇分 黒部駅より約二・二`

 

北野の石龕

県・史跡
昭和四〇年二月一日指定
黒部市北野五七

  土地の人はこの石龕をミョウドウサマとか永(栄)海塚といい、また、僧永(栄)海の塚で、その塚の上に建てたのが妙堂であるとも言い伝えている。僧永(栄)海(一四三〇〜一五一三)は、浄土宗鎮西派に属し、後土御門天皇(一四六四〜一五〇〇)の勅命を奉じて北国に下り、越中国では、宝祚延長・国家鎮護の祈願所として西願寺(魚津市)を文明二年(一四七〇)に開いた。その後、明応三年(一四九四)に石田の西往寺、永正元年(一五〇四)に三日市の西徳寺のほか、栃屋の法伝寺、浦山の法伝寺など、越中国で七箇寺(八箇寺ともいう)を開き、永正一〇年(一五一三)富山市猪谷の宝樹寺で没したと伝えられる。

 龕とは石でつくった厨子という意味で、この石龕は、三方を一枚石で組合せ、その上に屋蓋がのせてある。

 高さは、屋蓋下までが六四a、屋蓋は高さ二五aの土饅頭型。幅は外法八八aで厚さ九〜一二a、底石の厚さ一二aの礫質凝灰岩である。

 石室の奥壁と左右両壁には、各三体の仏像が刻まれている。奥壁中央は蓮台に座る阿弥陀如来、向かって右は両手に蓮台をもつ観世音菩薩、左は合掌した大勢至菩薩の、いわゆる弥陀三尊である。左右両壁の各三体は、蓮台に立つ地蔵菩薩である。来迎姿の弥陀三尊に六地蔵を配したものである。

●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」より一・五`

 

生地台場

県・史跡
昭和四〇年一〇月一日指定
黒部市生地芦崎三二八(黒部市)

  嘉永三年(一八五〇)八月、加賀藩は外国船の来航に伴い、海防のため領内海辺十三箇所に台場を築造することを決定し、越中では伏木と新湊と生地の三箇所に設定した。

 嘉永四年九月七日、砲台の築地見分のため、算用場奉行水原清五郎、改作奉行森権三郎等が出張し、一〇月二〇日より台場築作方に岩峅寺の門前久太郎が着工し、同年一一月一五日に完成した。

 安政六年(一八五九)生地村役人の神子田孫三郎から大筒打人として魚津馬廻の伜布目大太郎と馬場三郎が任命され、万延元年(一八六〇)六月、宮腰浦(現・金沢市)から大砲や火薬が舟積みされてきた。布施山開(十二貫野など)で生地村の人々が開拓している土地の作徳米(年貢を納めた残りの米)を入れる米蔵に一時保管し、文久元年(一八六一)八月、生地台場の南東一〇八間(約一九六b)の龍泉寺裏の海浜に、三間(約五・四b)四方の半二階の大筒土蔵が完成した。

 平成元年(一九八九)、台場の発掘調査が行われた。長さ六二b、幅八bあり、形は弧状を呈する。幕末に造られた台場の上に史跡保存のため約一・五bの盛土がなされ大筒二基が置かれている。

●あいの風とやま鉄道「生地駅」下車、約二`

 

愛本新遺跡

県・史跡 
昭和四五年一二月一九日指定
宇奈月町愛本新二七四

 愛本新遺跡は、大正時代に発見された縄文時代中期から後期にかけての約二fに及ぶ大遺跡である。昭和四五年(一九七〇)に農業構造改善事業に伴い発掘調査が行われ、後期の住居跡や集石遺構などが発見されたが、遺跡全体は調査後に浜砂で覆い埋め戻され保存されている。

 住居跡は三棟が発見され、一号住居跡は一〇個の柱穴の配置から長径六・一b、短径五bの大きさと推定される。集石遺構は、七基が発見され、一〇〜二七aの川原石を一・五bほどの円形に集め、中央がやや高くなっている。この集石遺構の中より磨製石斧製作の加工途中のものや、擦り切り用の工具や打ち欠きの工具などが見つかった。このことから縄文時代中期には蛇紋岩製の磨製石斧を製作していたと考えられている。

 また、数多く出土した中期前半の深鉢形土器の一つに三本指をもち、四つ足で尾が長く、丸い鼻孔、顔を少し持ち上げた姿のヤモリのような動物を口の部分に取り付けた造形が見られる。県内でこのような動物の形を表現したものは砺波市庄川町松原遺跡や南砺市井口遺跡から出土した土器にイノシシを表現したものがある。

●富山地方鉄道「愛本駅」より三`、徒歩約五〇分