ホーム 教育・文化・スポーツ 文化 芸術・文化 市指定文化財[歴史資料] 市指定文化財[歴史資料] 2023年3月24日更新 このページを印刷する シェア ツイート 備荒倉扁額 市・歴史資料昭和三〇年七月一一日指定黒部市岡一六五の一(黒部市立石田公民館) 備荒倉は江戸末期、天保の飢饉の教訓で生まれた穀物倉で、初めは御蓄米蔵と呼んだ。天保四年(一八三三)は、天候不順で長雨が続き冷夏となった。そのうえ洪水などの発生で米や農作物の大凶作が続き、飢饉や疫病が発生し餓死者が数多く大惨事となった。村々には飢民があふれた。飢民の餓死する者多しを察知した一三代加賀藩主斉泰は、備荒貯蓄を命じた。 同五年一〇月、御蓄米二万石を決定。暮に米で一万七千石、残り三千石を翌年春に銀(銭)で上納を予定した。 同六年五月、米、籾などを収納保管する御蓄米蔵の築造に着手、加賀藩領内の各十村組別の四六箇所の多くから願い出されたが、財政難の折で一三箇所の築造にとどまった。一〇月、大布施組三日市の村外れの畑地に間口七間、奥行き四間の一箇建の御蓄米蔵が完成した。 同七年九月に備荒倉と改名、扁額も完成し蔵の戸前の上に掲げられた。 その後、三日市備荒倉は嘉永元年(一八四八)に石田御蔵、囲の内に移転、石田備荒倉として明治までその役割をした。 扁額は欅材で製作。寸法は縦約八九㌢、横約一九八㌢で備荒倉と横書きに陽刻され、裏書には「天保六年乙未五月奉命書 市河三亥」と陰刻されている。加賀藩の祐筆で幕末の三名筆の一人、市河米庵の力強い書である。和紙に備荒倉と書き上げ、額板に貼り忠実に浮彫された文字に胡粉で白く塗り、上品かつ重厚に仕上がっている。額の細工人は、加賀藩の名匠武田友月と伝えられる。 ●富山地方鉄道「石田駅」下車、徒歩五分 八幡社の大幟 市・歴史資料平成五年七月二八日指定 黒部市田家新五五八(八幡社) この幟が奉納された天保一二年(一八四一)は、宮野用水が田家新地内に通水した年である。同用水は天保一一年に初めて通水したが、末端部である田家新地内にまでは達していなかった。それが、同一二年三月に通水して、田家新地内においてもその恩恵を受けたのである。宮野用水開削の歴史的過程の証となるものである。 天保一三年に田家新村・神谷村領は当年増高一五石とある(米沢文書)。これまでの石高は、三一石二斗五升四合と記されているから、宮野用水の完成によって新たに水田が開かれ五割近い増収高となった。 この喜びのあらわれが大幟となったものと推定される。 「厳武」は、あらそわず和を尊ぶの意か、楚子の「止戈為武」による。 揮毫者峰村寛俶は、本名を長次郎と称し、三日市で寺小屋を営み、この地方随一の学識者であり、書家でもあった。 幟の大きさは、縦九・七五㍍、横二・三六㍍、厳の文字の大きさは、縦二・五七㍍、横二・〇二㍍で、武の字は縦二・八二㍍、横一・五五㍍である。 ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」から池尻行きバスで「田家新」下車徒歩五分 または、国道八号田家交差点から徒歩五分 松儀家所蔵加賀藩主からの拝領 市・歴史資料平成九年二月二八日指定黒部市宇奈月町下立六八二(黒部市歴史民俗資料館) (一) 初代藩主前田利家(一五三八~一五九九)の印判状 慶長三年(一五九八)二月、前田利家が松儀家三代の伝右衛門(?~一六四五)を大坂(現・大阪)に召(め)され、黒部奥山のことを細かく詳しく報告させた。そのときに伝右衛門が頂いた印判状である。 (二) 三代藩主前田利常から拝領した鏡・硯・扇子箱 寛永一六年(一六三九)一二月、前田利常が伝右衛門を召されて、黒部奥山のことを直接お尋ねになり、申し上げたところ、利常は大層喜ばれ、伝右衛門は褒美として三つの品を賜った。このとき新川郡乙名百姓を仰せ付けになり、苗字もそれまでの松木から松儀に改めるよう申し渡された。 (三) 三代藩主前田利常書状 寛永一八年(一六四一)、前田利常が鷹狩りのとき鶏野亭の違い棚の修復を命ぜられ、伝右衛門は一一月に完成させた。この書状は翌年の三月、鷹狩りのとき、富士の絵の違い棚を見て喜ばれ、書かれたものである。 寛文六年(一六六六)、座敷と台所を増築し御旅屋として、代々松儀家が御旅屋守と奥山廻りを兼ねた。 ●富山地方鉄道「下立駅」下車、徒歩一〇分 三日市駅宿並絵図 市・歴史資料平成一八年八月二九日指定黒部市三日市(個人所有) 富山県内に数多くの町絵図や街道絵図が保存されているが、江戸時代に成立した宿場町の形態を作図された絵図は極めて少ない。 当時、加賀藩の御宿であった島家に伝わる絵図は、紙本著色軸物で横幅一四八・五㌢、縦幅四一・八㌢。天明二年(一七八二)六月に郡奉行所に提出した控えである。 この絵図には二六五軒のすべてに住民の名前が記され加賀藩御宿、富山藩御宿、大聖寺藩御宿や旅籠屋、神社仏閣、高札場、十村役人宅、親鸞聖人ゆかりの三本柿、作食御蔵(一六五三年建立)など宿場町の形態を細かく書き記されている。 三日市は、黒部川の分流である高橋川と黒瀬川の間に挟まれたやや微高地にあり、街道中央の町川用水(一間幅)は高橋川から取り入れ、飲料水などに利用した。この町川に一三本の橋を渡し、両側の行き来を容易にする利便性を計った。また米汁などの汚水を流す背割下水(用水)なども設けた。 北陸下街道(沓掛~黒部川~泊)と、寛文年間(一六六二~一六六七)に新しく整備された北陸上街道(浦山~愛本刎橋~泊)の分岐地として発展して来た。三日市は寛永一六年(一六三九)二月に宿駅に指定されている。 この絵図から三日市地区の成り立ちや、当時の宿場町の形態を克明に知ることのできる県内でも極めて貴重な絵図である。 ●富山地方鉄道「東三日市駅」下車、徒歩五分 越中新川郡愛本橋百分一之図 市・歴史資料平成二四年一二月二四日指定黒部市宇奈月町下立六八二(黒部市歴史民俗資料館)「越中新川郡愛本橋百分一之図」より「越中新川郡愛本橋指図」 江戸時代に、山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋と並び、日本三奇橋と称された愛本刎橋は、急流の黒部川には橋脚を立てられなかったため、両岸から「刎木」を出して橋を支える特殊な工法が採用され、計8回架け替えられた。 旧為重家(石川県珠洲市)に代々伝えられてきたこの絵図は、「越中新川郡愛本橋指図」、「小屋組正面之指図」、「埴木土入図」、「愛本方ヨリ遠望写図」の4枚で構成され、1つの軸物にまとめられている。 「天保十二年七月懸替」という記載があることから、7回目の架け替えの際に描かれたものとみられている。 内容については丁寧に細部までよく描かれているうえに、詳細な内部構造を見ることができ、当時の橋梁技術を示すものとして、土木・建築・歴史的に重要なものである。 ●富山地方鉄道「下立駅」下車、徒歩一〇分 芸術・文化 黒部市の文化財 黒部市年表 市準指定文化財 旧黒部市年表 旧宇奈月町年表 語りつぎたい黒部人 ~黒部に足あとを残した人々~ 教育委員会の後援を受けたいのですが。 黒部市史、宇奈月町史を購入したいのですが。 黒部にはどんな文化財がありますか。 国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 国指定文化財[天然記念物] 県指定文化財[天然記念物] 県指定文化財[史跡] 県指定文化財[民俗文化財] 市指定文化財[古文書] 市指定文化財[建造物] 市指定文化財[名勝] 市指定文化財[歴史資料] 市指定文化財[史跡] 市指定文化財[彫刻] 市指定文化財[絵画] 市指定文化財[民俗文化財] 市指定文化財[天然記念物] 黒部市コンベンション開催支援補助金 国指定重要無形民俗文化財