ホーム 教育・文化・スポーツ 文化 芸術・文化 市指定文化財[史跡] 市指定文化財[史跡] 2023年3月24日更新 このページを印刷する シェア ツイート 三本柿 市・史跡昭和三〇年七月一一日指定黒部市三日市三二五九の二(辻徳法寺) 親鸞聖人の旧跡地として、三日市寺町の一角に、石の玉垣で囲まれた一本の柿の老樹がある。これが三本柿で樹齢一七〇年以上と推定され、幹まわり一・六㍍、樹高約一六㍍、地上約三㍍の箇所から二本の太い幹に分かれている。 この柿の木には次のような言い伝えがある。 親木は、承元元年(一二〇七)親鸞聖人(一一七三~一二六二)が越後へ流罪になられた折、その途中、桜井の庄、三日市の辻源左エ門時国の家で宿泊され念仏の教えを説かれた。隣家の経田屋太兵衛の老婆も襖の外で聴聞した。翌朝、親鸞聖人は経田屋に立ち寄られ、串柿のもてなしを受けられた。聖人は賞味された柿の種を炉の中に入れ半焼きになった串柿の種三個を植えられた。後にこの種が芽を吹き出したという。人々はこれを三本柿と呼び、念仏の功徳の偉大さを示すものとして大切にし、今日まで伝えている。 その後、辻源左エ門は堂を建て辻道場ができ(現・辻徳法寺)、近郷の人達の参詣で賑わった。 現在の老樹は、その親木の芽生えが成長したもので、昭和三一年(一九五六)には玉垣が奉納され、俳人五十嵐播水の「仏恩の柿の茂りと見上げたり」の句碑も納められた。 また、柿の種には焼いたような黒いまだらがあり、聖人の故事を伝えるものと伝えている。 ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、徒歩五分 若栗城跡 市・史跡 昭和三〇年七月一一日指定 黒部市若栗三七三七(黒部市) 若栗城跡は、たちのしろと呼ばれ、黒部川左岸の旧北陸街道に面した交通の要所に位置する。敷地は東西約一〇〇㍍、南北約八〇㍍の規模で、周囲の土塁は今も高さ約五㍍、幅一〇~二〇㍍の規模で残っている。 城の構造は、方形に堀と土塁をめぐらし、土塁はコの字状に北、西、南の三方を囲む形態で東側が開けている。調査では、珠洲、越前、越中瀬戸、伊万里などが出土した。また、土塁の基礎固めの石列、建物に関する石敷きが見つかっている。戦国時代にこの城が造られたと考えられる。 市内の平地にある城館には石田城、堀切西館、堀切東館、小梅山遺跡、長安寺館、善念寺館などがある。 「越能賀三州志」では、東西四〇間、南北四二間で高さ七尺の垣上げありとし、館主に総田太郎左衛門の名が出ている。また、「文政元年城跡館跡由来申伝之趣書上申帳」文政元年(一八一八)によれば城主不悪凡斎右京輔が居住とある。 地元の言い伝えでは、上杉勢と戦った城主の妻の勇壮な奮戦ぶりの悲話が残っている。 ●富山地方鉄道「舌山駅」下車、徒歩一〇分 八心大市比古神社 市・史跡 昭和三〇年七月一一日指定黒部市三日市一〇三六の一 この神社は延長五年(九二七)の延喜式神名帳に記載されている式内社である。もとは現在地の北東約五〇〇メートルのカヤンドウと呼ばれる地内にあったが、戦国時代に上杉謙信(一五三〇~一五七八)勢の兵火にかかって社殿が焼失し、その後天正八年(一五八〇)に三島野の微高地に移転したものである。 祭神の主神は大山祇命、相殿に少名彦命・軻遇突智命で、昔から五穀豊饒の守護神として町民はもとより近郷の人たちに三島さまと呼ばれ崇敬されてきた。 また、この神社へは布施川の上流にある嘉例沢から神幣が飛来したとか、祭日には能登からご神火が飛んできたとかが語り伝えられている。これらの伝承は、能登の文化圏や布施谷と深い関連のあることを示唆している。 神社には慶長元年(一五九六)「御獅子頭(おんししがしら)御入之家」の古文書や寛文四年(一六六四)に寄進された鰐口、元禄二年(一六八九)作の鶏絵馬など、社宝が保存されている。 ●富山地方鉄道「電鉄黒部駅」下車、徒歩五分 石田の石塔群 市・史跡昭和三五年七月一九日指定黒部市堀切二一六六(黒部市) 堀切村の開拓者源右衛門の墓といわれる大きな五輪塔を中心に、大小さまざまな五輪塔や宝篋印塔・板碑・風輪など、合わせて六〇余基が集められている。最近の調査では鎌倉時代から南北朝・室町時代の特色を示すものもあることが分かり、これらの時代にこの地方に住んだ豪族やその一族の墓が中心になっているものと考えられる。 これらの石塔は、昭和初期石田地区の耕地整理が実施されたとき、あちこちの田んぼの中から掘り出されたものを、源右衛門の墓のある墓地に集めたものである。その中には南北朝時代末期から室町時代にかけての作とみられる石灯籠が一基ある。 ちなみに堀切村は、堀切千軒ともいわれた大集落をなしていて、この地方では最も古くから開拓の進んだ土地であると伝えられてきたが、近年の堀切遺跡の調査からもそのことが明らかになりつつある。また近くにある古刹真言宗高峯寺とのかかわりも注目される。 ●あいの風とやま鉄道「黒部駅」下車、徒歩二〇分 明教院釈僧鎔慶叟の碑 市・史跡 昭和三六年一二月二六日指定黒部市宇奈月町浦山四九七(善巧寺) 僧鎔(一七二三~一七八三)は宇奈月町浦山の浄土真宗本願寺派善巧寺の一一代住職である。幼名與三吉。初名を霊観、後に慶叟。字を子練。号を仰峰・甘露・雪山・空華といった。諡は明教院。 新川郡市江村(現・富山市水橋)の旧家の渡辺彦左衛門の三男として生まれる。一一歳のとき上市町の明光寺の学僧霊潭(一六八九~一七六九)に見出され、その養子となり霊観と改めた。 二一歳のとき善巧寺に入寺した。勉学の思いを断つことができず京都に上り、同郷の先輩僧樸の門に入り、僧鎔と名乗った。学林(現・龍谷大学の前身)で行った四度の講義を通して評判が一段と高まり、後の学会に大きな影響を与えた。宝暦八年(一七五八)ごろ自坊に学塾空華廬を創設し、多くの優れた人材を育てた。 『新川郡学者略伝』には「今、世にある諸国の末弟およそ三千人」とある。安永三年(一七七四) には飛弾国古川(現岐阜県古川町)で起こった教学上の争いを解決している。『本典一滞録』二一巻をはじめ一〇〇余部を著した。 天明三年(一七八三)、六一歳でなくなった。天保一二年(一八四一)に門人行忠が願主となり、一丈八尺余りの石碑が建てられ、あわせて百回忌予修法要が空華一門によってとり行われた。 ●富山地方鉄道「浦山駅」下車、徒歩五分 阿古屋野古墳 市・史跡昭和四〇年二月一日指定黒部市阿古屋野三九九の二(黒部市) 阿古屋野古墳は、布施川右岸の阿古屋野台地上に位置し、台地の西方に布施川が形成した小さな平野がある。北西方向は片貝川、富山湾が遠望できる。この古墳の北と東側は水田となっている。 昭和一〇年(一九三五)頃は、この台地上には六基の古墳が確認されているが、耕地整理によりこの台地が開墾され、五基の古墳が消滅した。このとき五基の古墳より管玉・刀剣・須恵器が出土したが、その所在は不明である。 昭和六〇年と平成二年に古墳の規模・築成方法・主体部を確認するための調査が行われた。その結果、一辺が約一五㍍で平面が四角い形をした方墳であることが確認された。幅約二㍍の溝が墳丘を方形にまわる。墳丘をとりまく溝は東側、南側と、北側で確認された。しかし、西側は谷地形となっているために見つかっていない。墳丘は、厚さ一〇~三〇㌢の粘土を、何層も盛り上げて、造られている。また、石室などを作らない形式で、古墳時代の後期(六世紀ごろ)に作られたと考えられる。 現在の古墳は、平成二年の調査をもとに約一㍍盛り上げて復元した。 ●国道八号田家交差点より車で一〇分 仙人岩屋と石仏 市・史跡昭和四六年九月一日指定黒部市宇奈月町黒部奥山固有林四〇イ林小班 阿曽原小屋から阿曽原峠を越え、仙人谷に沿ってブナ林の中を登ること約三時間、標高一五二〇㍍の仙人岩屋に着く。 仙人岩屋は、仙人湯小屋の北約一〇〇㍍のところにあり、巨大な花こう岩の一枚岩(東西一四㍍、南北一〇㍍、厚さ約五・五㍍)でできた岩陰である。前面を石垣で塞ぎ、正面右側(北側)に出入口、その反対側に煙出しを設けている。 この岩屋内部の広さは、東西約四㍍、南北約七㍍、高さ約一・六㍍あり天井石の下はほぼ水平である。奥壁は、半円形で一㍍を超える石が入り組んで天井石を支えている。 石仏は、岩屋の最奥部の石積みの壇の上に固定されている。この石仏は、背後の板石に彫りくぼみをつくらない中肉彫りである。背後の板石の形や大きさ(縦五〇㌢横四二㌢)、それに宙に浮く蓮台の表現から元来は石龕の一部を構成していた石龕の奥壁と考えられる。 板石に高さ約四一㌢の阿弥陀如来坐像が彫られている。全体的に表面が溶けたようになり、顔もはっきり分からない。また、線刻の光背は膝の高さで消えているが、元は蓮台の上端まであったと考えられる。鎌倉時代末期から南北朝時代のものである。 ●黒部峡谷鉄道経由、関西電力上部軌道「阿曽原駅」下車、徒歩三時間 浦山寺蔵遺跡 市・史跡平成一三年二月一二日指定黒部市宇奈月町氷解・寺沢・山越割・寺蔵 浦山寺蔵遺跡は、標高約一四〇㍍で比較的急な斜面にあり、昭和五〇年(一九七五)に宮野用水の改修工事中に発見された。翌五一年に県営圃場整備事業に伴い発掘調査が行われた。これにより一九棟の住居跡、五〇余の穴、五か所の立石、石組み炉などが発見された。 また、縄文時代中期前葉から後期初頭の土器、土偶、耳飾りや磨製石斧、打製石斧、石棒、石皿などの石器が多数発見されたが、調査終了後に遺跡の大部分は水田の下に保存された。 発見された住居跡は、平面形が円形又は、方形の形で確認できたのが六棟ある。大きさは、最大で一辺四・五㍍あるが、多くは一辺が三㍍前後で、縄文時代中期の県内の他の遺跡の住居跡と比べると全体に小さい。 土器は、粘土を渦巻き状に貼り付けて立体的に装飾を施したものが多く、深鉢形土器や台付土器、釣り手形土器、土偶などの多くの種類がある。 石器は、生産用具の磨製石斧、打製石斧、すり石、石皿、石錘、石鏃や工具の砥石、呪術用具の石冠、石棒、装身具の玉類など多彩な種類がある。 石器生産に欠かせない蛇紋岩の原材・剥片などが多量に発見され、磨製石斧製作の加工途中のものがあるため石器製作過程が復元でき、磨製石斧製作遺跡と考えられている。 ●富山地方鉄道「浦山駅」下車、徒歩二〇分 三日市里程標 市・史跡 平成一八年八月二九日指定黒部市三日市一三四九(三日市公民館) 至入善町貳里貳拾壹丁五拾五間参尺 至浦山村壹里貳拾六丁拾間 距富山市西町元標八里拾六丁五拾間参尺三日市町 至越後国界経入善町六里五丁貳拾参間参尺 明治四十五年六月十日建設 富山懸 近代国家をめざす明治政府は、明治六年(一八七三)一二月、太政官布達をもって道路の里程(距離)を実測して、里程仮標を設置することを達した。そして、一里を三六町、一町を六〇間、一間を六尺として全国統一の基準とした。 また、各地の町村にたいして里程標を設置することを通達した。三日市里程標は、高さ三三〇㌢、横幅三〇㌢のケヤキ材で同二九年一月に設置されその後、同四五年六月一〇日に再び設置されたものが現存している。 この里程標の設置された場所は、旧北陸下街道(国道二一号甲)と上街道(二一号乙)の分岐するところで、椚町と大町の十字路、平井茶舗店(三日市三一一四)前であった。昭和二八年の道路拡幅工事で撤去され、三日市公民館敷地内に移転した。 現在、富山県内に設置してある里程標は八箇所であるが、三日市以外は復元された里程標である。 三日市里程標は、近代国家をめざした明治政府の陸上交通の遺産で、明治期の設地当時の貴重な資料である。 ●富山地方鉄道「東三日市駅」下車、徒歩一〇分 芸術・文化 黒部市の文化財 黒部市年表 市準指定文化財 旧黒部市年表 旧宇奈月町年表 語りつぎたい黒部人 ~黒部に足あとを残した人々~ 教育委員会の後援を受けたいのですが。 黒部市史、宇奈月町史を購入したいのですが。 黒部にはどんな文化財がありますか。 国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 国指定文化財[天然記念物] 県指定文化財[天然記念物] 県指定文化財[史跡] 県指定文化財[民俗文化財] 市指定文化財[古文書] 市指定文化財[建造物] 市指定文化財[名勝] 市指定文化財[歴史資料] 市指定文化財[史跡] 市指定文化財[彫刻] 市指定文化財[絵画] 市指定文化財[民俗文化財] 市指定文化財[天然記念物] 黒部市コンベンション開催支援補助金 国指定重要無形民俗文化財