黒部市の生い立ち

[更新日:2012年04月17日]

郷土のあけぼの

 黒部市のおこりは、旧石器時代から始まります。 布施川右岸丘陵地帯にある「山田遺跡」では、約15,000年前の遺物が発見され、古くからこの地域に人が住んでいたことが分かっています。
 縄文時代前期に台地上に集落が分布していたことが、「朴原遺跡・新坂遺跡」等から分かります。中期には、前沢・袖野・枕野に、後期には、田家・栃沢など各地に広がっていきました。
 弥生時代の遺跡は、「中新遺跡」が発見されているだけですが、人がいなくなったわけではなく、低地での生活が中心となったため、遺跡が発見されにくくなっているのです。
 また、旧宇奈月町地内では、宇奈月地区(桃原)、内山地区、愛本地区(風野、愛本新)、下立地区(青岩)、浦山地区(馬場割、寺蔵)などで遺跡が発見されています。

古墳・奈良・平安時代

 阿古屋野の台地上には、かつて布施川右岸を開拓した有力者の6つの古墳があり、その中でも6世紀につくられた「阿古屋野古墳」は、最大規模のものでした。発掘調査の結果、富山県でも珍しい方形の「方墳」であり、四方に溝が掘られていることが確認されました。
 7世紀末期に富山県地域は「越中」(こしのみちなか)と呼ばれ、伏木(高岡)の国司のもと、この地域は新川郡司が治めていました。
 また、万葉集で有名な越中の国司大伴家持が、旧宇奈月町内山・浦山地区を訪れ、奉納の歌を詠んだと伝えられています。

鎌倉時代

 源義経主従が、北陸を通り奥州に落ちるとき、行脚僧に変装した源義経主従に、この地を支配していた武士が、娘の病気平癒の祈とうを頼み、彼らは丁寧にお祈りをしていったという言い伝えがあります。
 鎌倉時代の遺跡としては、謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左ヱ門常世の住居跡と伝えられる遺跡があります。
 また、親鸞聖人が越後に流されるとき立ち寄った経田屋太兵衛宅で老母にもらった、串柿の種3粒を炉の火で焼いて庭先に植えさせると、一夜にして芽が出、人々は「三本柿」と呼ぶようになったという伝説があります。
 その後、親鸞に帰依するものが多く、仏教文化がもたらされ、多くの寺院や仏像がつくられました。

室町時代

 室町時代にはいると、新川郡内の各地が開拓され、集落ができ、寺院が数多く造られました。(旧宇奈月町浦山の善巧寺、下立の全竜寺など)戦国時代には、上杉氏や織田氏の攻防の中にあり、市内の"たちのしろ"と呼ばれる「若栗城跡」をはじめ、「石田城跡」「中陣砦跡」「長安寺館跡」「鋲ケ岳城跡」などの数多くの城館遺跡が残っています。
 「嘉例沢の磨崖仏」「北野の石龕」「五輪塔」などの石造物も、南北朝時代から戦国時代にかけて造られました。

江戸時代

 江戸時代に入り、当地方は、加賀前田藩の領土となりました。藩財政のきそは、農業の生産増強にあり、新田開発が盛んに行われました。
 旧宇奈月町の街道に松並木を植え一里塚が作られ、黒部川に初めて橋(愛本橋)がかけられました。
 当地の開発は、江戸末期には十二貫野台地にまで及びました。
 黒部川流域は、江戸時代全般を通して開拓と洪水による荒廃を繰り返してきました。
 「十二貫野台地」の開発は、天保の飢饉ののち、加賀藩の直営事業として、椎名道三により天保10年に着手されました。
 そのほか、「宮野用水」「三ケ用水」「若栗用水」など黒部川から引水し、流域が開拓されました。
 幕末からは、新川地方一帯で盛んに新川木綿が生産され、製品は県内はもちろん大阪や信州方面へも売られていました。
 嘉永4年(1852年)加賀藩は、幕府の名により外国船警戒のために、生地に「台場」を築いて海岸の防備に努めていました。

明治・大正・昭和・平成時代

 明治22年、市制・町村制が実施され、本市の母体である「三日市町」「生地町」「石田村」「田家村」「村椿村」「大布施村」「前沢村」「荻生村」「若栗村」「東布施村」「浦山村」「下立村」「内山村」「愛本村」の2町12村が誕生しました。
 その後、昭和15年に1町7村が合併して「桜井町」に、「浦山村」と「下立村」が合併して「東山村」になりました。
 さらに昭和28年には「桜井町」に「東布施村」が編入、昭和29年4月には「桜井町」と「生地町」が合併して「黒部市」に、同年7月には「東山村」「内山村」「愛本村」が合併して「宇奈月町」になりました。

 そして、平成18年3月、「黒部市」と「宇奈月町」が合併して、新しい「黒部市」が誕生しました。