雪山 俊夫(ゆきやまとしお 1880-1946)

[更新日:2009年02月06日]

コラム 雪山僧鎔(ゆきやまそうよう 1723-1783)

 

 

 僧鎔さんは、浦山の善巧寺第11世住職。俊夫さんからさかのぼること約150年前に活躍した富山を代表する宗教家です。

 

 ある暑い日でした。上市町の明光寺住職の霊潭師(れいたんし)は、おまいりするために門徒へ出かけました。お経をあげ、説教し始めると、霊潭師の言葉を一言ももらさぬよう熱心に聞いている幼い少年がいました。その少年の名前は与三吉(よそきち)、のちの僧鎔さんです。

 

 彼の生まれた渡辺家は市江村(現在の富山市水橋)の豪農であり、地元の名家でした。与三吉は渡辺家の三男として享保8(1723)に生まれました。幼いころから、だれも教えたことがないのに書を読み、字を書く少年でした。武士以外の人々はほとんど読み書きできなかった時代のことです。

 

 その才能を見抜いた霊潭師は、与三吉を養子として明光寺へ迎えることにしました。与三吉は、名を霊観(れいかん)へと改め、霊潭師のもとで10年間仏教について熱心に学びました。21歳の時に、浦山善巧寺の住職となり、付近の人々に仏の道を説きました。

 

 しかし、もっと学びたいという思いが強く、京都にのぼりました。京都の名僧、僧樸(そうぼく)を師として名を僧鎔に改め、勉強にはげみました。仏教の中心地で名僧の講義を聴き、みんなと討論して自分を磨く時代でもありました。それから10年後、31歳の時、初めて学林(現在の大学院)で講義する名誉を与えられました。

 

 このころから僧鎔さんの積極的な活動が始まりました。

 

「仏教は、学問としても大切ではあるが、それよりもっともっと大切なことは、難しい経典を分かりやすく、一般の人々に説くことである。」

 

という信念をもって、全国に仏の道を説いてまわりました。百姓の家でいろりの火にあたりながら、働く農民の田んぼの中、時には猛暑の道中で、農民や商人たちに説いてまわりました。

 

 やがて、浦山の善巧寺にもどり、空華廬(くうげろ)という勉強の場所をつくり、北は青森、南は九州の各地から集まってくる信者や僧侶に仏教の教えを説いたそうです。その弟子は、3,000人にものぼったといわれています。

 

 天明3(1783)石川県七尾市での説教を最後に、病の床に伏しました。枕元には、名も知らぬ百姓、町人、僧侶が集まり、快復を祈って一心に念仏を唱えました。その願いもむなしく、僧鎔さんも、みんなとともに念仏を唱えながら61歳の生涯を閉じました。

 

 善巧寺境内には、僧鎔さんの偉大な生涯をしのび、「明教院釈僧鎔慶叟(みょうきょういんしゃくそうようけいそう)」という碑が建てられています。

 

 雪山家は、このような学僧の血筋をもつ一家で、俊夫さんも、その才能を大きく開花させたひとりといえます。

 

 

 

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