佐々木 大樹(ささきたいじゅ 1889-1978) 

[更新日:2009年02月05日]

 

 

        【帝展初入選作品「誕生の頃」】

 

■新たなる木彫を求めて

 

 その当時の日本の彫刻界は、新しい時代の始まろうとしていた時期で、西洋から伝わってきた彫刻をまねるのが主で、独自の彫刻はありませんでした。木彫にいたっては、さらにおくれていて、江戸時代の面影を色濃く残していました。

 

 西洋彫刻と日本の伝統的な木彫のはざまで、長次郎さんはいかに自分自身の独自な彫刻を生み出すかについて、悩み苦しんでいました。

 

 そんな中出会ったのが鎌倉時代の仏像でした。その力強さと美しさに深く心を打たれたのです。自分の進むべき方向を確信した長次郎さんは、伝統的な仏像彫刻の精神に現代性をあわせもった独自の彫刻を制作するのです。

 

 そして、大正9(1920)、第2回帝展に「誕生の頃」を出品します。それは初入選となり、しかも特選となるのでした。

 

 その後の活躍はめざましく、第8回帝展出品作「紫津久(しづく)」は帝国美術院賞を受賞するなど、日本の彫刻界に確かなポジションを築いたのでした。

 

 

 

■美の求道者

 

 やがて、長次郎さんは「大樹」という号を用いるようになりました(以後、大樹さんと呼びます)。

 

 大樹さんは、彫刻の制作を続けながら、昭和9(1934)帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の教授となり、翌年、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)創立とともに教授となって後進の指導、育成にあたっています。穏やかで優しい人柄だったので、多くの学生から慕われていました。

 

 展覧会では輝かしい実績を残し、そして大学の教授となったにも関わらず、大樹さんは常に控えめでつつましい人でした。その功績を考えると、芸術院会員、日展理事となってもおかしくはなかったのですが、すべての肩書きを拒否し制作に打ち込みました。

 

「名声、地位は作家には不要。いかに自分の納得したものを作るか、それだけが作家の生命だ。」と語っています。美だけを見つめる、その姿はまさに美の求道者そのものだったのです。

 

 そして、この彫刻家にはひとつの大きな夢がありました。それは「自分を生み、育ててくれたふるさとに、大観音像を作って恩返しをしたい。」ということでした。この夢は昭和12年ころにはすでにもっていたようですが、実現までにはかなりの時間を必要としたのです。

 

 昭和50年、その壮大なプロジェクトはスタートしました。当初、観音像は生まれ育った音沢の近くにと考えていたのですが、音沢の地盤は大変重たい彫刻を設置するのに問題があったため、黒部川を見渡すことができる大原山(おおはらやま)に建立されることになりました。

 

 まず原型が完成し、中間像の作製の後、実際の大きさまで引き伸ばす作業へと進もうとした昭和53118日、大樹さんは、帰らぬ人となりました。

 

 大樹さんが果たすことのできないで残した大観音像建立の志は、彫刻家である五男日出雄さん(ひでお)に引き継がれ、12.7mの像が昭和5710月に完成したのです。

 

 その「平和の像」は、標高565.8mの大原山山頂に建っています。右手を高く天にかざし、温かく深い愛情に満ちたまなざしで、悠久の黒部川の流れと人々の姿を見つめています。それはまさに大樹さんのまなざしでもあり、人類の平和と故郷への思いがその像に託されているのです。

 

 

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